2011年9月30日金曜日
お葬式のはてな?③ 「霊柩車と寝台車」
主に葬儀・告別式を終えて火葬場まで出棺の時のご遺体搬送に使うものです。
また、同じくご遺体の搬送に使う車に『寝台車』があります。
用途としては同じものなのですが、この2種類の車には実は大きな違いがあります。
一般的に『霊柩車』は、後ろにご遺体を乗せるスペースはありますが、付添い人が乗るスペースはありません。
運転席と助手席だけが人の乗れるスペースとなります。
それに対してご遺体と付き添いとが一緒に乗れるスペースを設けているものを『寝台車』といいます。
車の作りというものが大きな違いといえますが、使い方にも違いがあります。
『霊柩車』が火葬場への搬送に使われるのに対して『寝台車』は、病院から自宅への搬送や、自宅から葬儀会場への搬送のために使うことが一般的です。
ただ、全てのご遺体搬送用の車の事を『霊柩車』という場合もあります。
一般的にイメージされるのは「宮方霊柩車」だと思いますが、他に「洋型霊柩車」「バス型霊柩車」「バン型霊柩車」があります。
『寝台車』にあたるのが「バン型霊柩車」になります。
ミニバンやステーションワゴンを改造して、棺を乗せられるようにしているものが多く、基本的に飾りつけも施されていません。
ちなみに「バス型霊柩車」は、火葬場へ向かう霊柩車とご遺族や参列者の乗るマイクロバスをひとつにしたようなものです。主に北海道で使われる地域限定の特例的霊柩車といえます。
ご遺体は道路運送法の区分では「貨物」に区分されます。ですから、第一種免許(普通免許)で運転する事が出来ます。
ただし「バス型霊柩車」は、ご遺族などを乗せるため旅客運送という事になり、第二種免許が必要となります。ご遺体は付属する荷物という事になるようです。
「寝台車」に関しては、厳密に言えば、付添い人が乗っている場合は、乗客と考えられそうですが、主たる目的がご遺体の搬送という事から、それにはあたらないようです。
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お葬式のはてな?② 「遺影写真」の選び方
故人を偲ぶための象徴として、遺影写真にはとても重要な役割があります。
昔は、お通夜や告別式などの葬儀が厳粛な儀礼でした。そのため、遺影写真も喪服などへ着せ替えを行ったものです。また、故人の表情も硬い写真が使われることが一般的でした。
しかし、最近は故人の自然な姿を象徴して、写真の着せ替えはせず、むしろ表情も柔らかいカラー写真を遺影写真として使用されるケースが増えてきました。
威厳よりも「故人らしさ」に趣を置いているのです。 だからといって、写真ならば何でもいいというものではありません。
ここでは、遺影写真を選ぶときのポイントがいくつかありますのでご紹介しておきます。
1.なるべく大きな写真にする
式場などで葬儀を行う場合は、ある程度の大きさの写真が必要となります。ですので、引伸ばすためにできるだけ故人が大きく写っている写真の方がいいでしょう。
2.絹目のつや消し、インクジェットなどは不向き
写真を大きく引き伸ばすには、絹目のつや消し写真は拡大すると絹目も拡大されるため遺影写真としては好ましくありません。また、インクジェットプリンターで印刷された写真も不向きです。インクジェットプリンターのものは、確かに見た目はきれいなのですが、拡大するとドットが目立ち粗い写真となってしまいます。ですので、できるだけツヤのあるもので、写真屋さんでプリントされた写真を選んだ方が、遺影写真としてふさわしいでしょう。
3.200万画素数以上
最近はデジタルカメラで撮った写真データを遺影写真として使用するケースも多くなってきています。データからも遺影写真を作成することは可能ですが、画素数の小さいものは避けて下さい。画素数が小さいデータを拡大するとぼやけた写真になってしまうため、200万画素以上のデータを用意した方がいいでしょう。 もちろん、ご自宅で式場で家族葬を行う場合などは、一概にこれらのポイントにこだわる必要はないともいえますが、遺影写真は葬儀のときだけでなく長く残るものだけに、いざという時に備えて用意しておく方も最近では多くなっています。
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2011年9月27日火曜日
お葬式のはてな?① 「祭壇-さいだん-」とは
祭壇(さいだん)とは?
祭壇上部にある装飾物は、葬列で用いた輿(お柩を運ぶ葬具)がもととなって変形したもので、他にもさまざまな装飾が施されていますが、全てに意味があるため、地域や宗派によって形態は少しずつ違いがあります。
昔は輿で運んでいたご遺体も、今は霊柩車で運びますから、祭壇の現在の役割は実質的なものではなく、装飾や象徴といったものとなっています。
葬儀の費用明細の中で「祭壇使用料」という欄がありますが、祭壇は買取ではありませんからレンタル料ということになります。ごく一部の葬儀社なのですが、豪華な祭壇を用意して、使用料と称して驚くような高額な請求をすることがあります。日常生活の中で考えれば、レンタルがそれほど高いはずはありませんから、注意して下さい。
無宗教葬儀を希望する人や、祭壇を使用しない生花葬を希望する人が増えているのは、葬儀についての考え方の変化の表れだと思います。
法要のご相談③ 《法事・法要の服装は?》
「法要・法事」について、ご家族様からよく質問される事についてです。
葬儀のお世話をさせていただいておりますと、お客様から仏事についてのご質問を受けることがあります。
先日、葬儀を終えたご親族様から「今度、父親の七回忌の法事をするのですが、そのときの 服装 はどのような物がいいですか?」と質問をされました。
ポイント① 施主側の服装
・ 男女共に、三回忌(満2年)までは正式な喪服を着たほうがよいでしょう。年月が経つにつれて喪の色を薄くしていき、黒からグレーや紺など地味な色にしていきます。七回忌以降は、略式喪服でかまいませんが、参列者よりも軽い服装にならないように配慮しましょう。
ポイント② 参列者の服装
・ 一般的に、親族以外の参列者は略式礼服を着用します。七回忌以降は、平服でかまいませんが、ラフな服装は避けたほうが無難でしょう。
ポイント③ 子供の服装
・ 制服がある場合は制服を着ましょう。無い場合は紺やグレーなどの服で、靴は黒か地味な色にします。
★男児・・・・ブレザーにズボンに白無地のシャツ。
★女児・・・・ワンピース。色柄や花柄などの派手な模様、リボンやフリルなどの装飾品がついた服は避ける。
このようなご説明をさせていただきました。
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2011年9月26日月曜日
法要のご相談② 《年忌法要はいつまでつとめるのか?》
今回も「法要・法事」について、ご家族様からよく質問される事についてです。
・年忌法要はいつまでつとめるのか?
まず年忌法要とは?
年忌法要は、年回法要ともいい、一般に法事と呼ばれているものです。
亡くなった翌年が一周忌、その翌年の2年後が三回忌です。
三回忌からは亡くなった年も含めて数え、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌と追善供養の法要を営みます。
一周忌と三回忌は四十九日法要に次いで大切な法要です。
親族を招いて、規模の大きな法要を営みます。スムーズにできるように、おそくとも2ヵ月前から準備をしましょう。
まず、住職と相談をして、法要を営む日を決めます。
法要の日に卒塔婆を立てる場合は、事前に住職に依頼しておきます。
次に、法要場所を自宅か、菩提寺、あるいは斎場で行うかを決めます。
一般に関東は菩提寺で、関西は自宅で法要を営むことが多いと言われます。
法事を菩提寺以外で営む場合は、「御布施」とは別に「御車代」を包むのが一般的です。
また住職が会食を辞退された場合は、「御膳料」を包む場合があります。
日取り、場所が決まったら、招待客を決め、1ヵ月前には案内状を送り、返事をもらいます。
参列者の人数が確定してから、会食、引き出物を用意します。
引き出物は一所帯に一個でよいとされています。
表書きに、「志」か「粗供養」、下に施主の家名を書きます。菩提寺へのお礼の表書きは、「御布施」とし、「御経料」とか「御礼」とは書きません。
法事の際の服装は、施主側は略礼服を着用し、数珠を忘れずに持参します。
一周忌と三回忌は必ず、ひとりの法要を営みます。
七回忌以降は同じ年に法要が重なった場合、まとめて行ってもよいとされ、法要を行う日は、あとに亡くなった故人の命日にあわせます。
案内状には誰と誰の法要かを必ず明記します。これを「併修」あるいは「合斎」といいます。
※年忌法要はいつまで行うのか、とよく質問を受けます。
三回忌までは、家族や親族のほか、故人と縁の深かった方々を招きますが、七回忌以降は次第に招く人を少数に絞っていく場合が多いです。
年忌法要の回数は、地域の慣習や菩提寺の考えによって異なりますが、一般には三十三回忌か五十回忌をもって、最後の法要の「弔い上げ(とむらいあげ)」とすることが多いです。
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法要のご相談 《年忌法要が重なるとき》
今回は「法要・法事」について、ご家族様からよく質問される事についてです。
一年の間に、二つ以上の年忌法要を重ねて営まなくてはならない場合、これを一緒に行うことがあります。
たとえば 父の法要 と 祖母の法要 が重なった場合です。
このような法要を、年忌法要の併修(へいしゅう)といいます。
ふつう回忌の数の若いほうの祥月命日にあわせて行います。
一周忌だけは、決して他の年忌法要と併修しないことになっております。
できれば七回忌ぐらいまでは併修を避けたいものです。
なお、法要の案内状を出す場合は、二つ以上の併修であることを明記します。
2011年9月19日月曜日
法事・法要について
一般に、私たちは「法事」と言っていますが、厳密に言いますと、住職にお経をあげてもらうことを「法要」といい、法要と後席の食事も含めた行事を「法事」と呼びます。
「初七日」とか「四十九日」「一周忌」ということばは聞いたことがあると思います。
故人が亡くなったあとに行う重要な法要です。
そもそも法要とは、仏になった故人を供養するという意味の仏教用語で、追善供養ともいいます。
法要は故人を偲び、冥福を祈るために営むものなのです。
冥福とは、冥途の幸福のことで、故人があの世でよい報いを受けてもらうために、この世に残された者が供養をします。
また法要は、故人が設けてくれた人と人とのご縁、「この人がいたから自分がいる」というつながりを再確認し、故人への感謝の思いを新たに、自分自身を見つめ直す場でもあります。
仏教では法要を行う日が決まっています。
死後七日ごとに四十九日まで行う忌日法要(きびほうよう)と、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌などの年忌法要(ねんきほうよう)です。
仏教では、死後七週間はまだ故人があの世とこの世の間をさまよっているとされています。
この四十九日間を「中陰(ちゅういん)」と呼んでいます。
死後七日目から七日ごとに七回、閻魔大王(えんまだいおう)をはじめとする十王から、生前の行いに対してお裁きを受け、四十九日目で来世の行き先が決まるとされています。
残された家族は故人が極楽浄土に行けるように、故人に善を送る(追善)法要を営むのです。年忌法要は極楽浄土に行った故人がさらなる精進の道へと導くために営みます。
一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌とつづき、三十三回忌で長い修行の締めくくりとして、故人は菩薩(ぼさつ)の道に入り、「ご先祖さま=守り神」となります。
仏教ではさらに、五十回忌、百回忌と続きますが、一般には三十三回忌、もしくは五十回忌をもって「弔い上げ」とし、法事の締めくくりとしています。
2011年9月16日金曜日
お寺で行われる行事について ③
引き続き、お寺で行われる行事(法要)の一部をご紹介します。
どを唱えることからはじまり、いまに続いています。
はちえ)と言います。
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お寺で行われる行事について ②
が開かれたのは推古天皇の時代、奈良の元興寺と言われています。
涅槃会のとき、涅槃図をかかげます。涅槃図には釈迦が沙羅双樹の下で頭を北に向けて横たわり、入滅、亡く
なった姿が描かれています。頭を北に向けて死者を横たえる北枕は、ここからきています。
潅仏会は、お釈迦さまが生まれた日に営む法要です。花まつりとも呼ばれています。釈迦の生まれた地が花園であったことから桜などで飾った花御堂がつくられたそうです。
日本では606年から潅仏会がはじまり、9世紀には宮中の儀式になっています。その後、徐々にひろまり、日本中の寺院で行われるようになりました。
花まつりといえば、甘茶が有名です。花御堂のなかに安置された釈迦の誕生仏に甘茶をかけて誕生を祝います。これは釈迦誕生のとき、八大竜王が天から降りて香湯を注いだという故事に基づいた儀式です。
江戸時代までは仏像の頭にかける湯は、沈香、白檀、甘松、丁字などの香を袋に入れて湯にひたしたものが使われていましたが、江戸時代から甘茶が使われるようになったそうです。甘茶はユキノシタ科の甘茶と呼ばれる低木の葉を乾燥させて煎じたもので、参拝者はひしゃくで仏頭に甘茶を注ぎます。甘茶を飲むと、無病息災が得られるとも信じられています。
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2011年9月12日月曜日
お寺で行われる行事について ①
檀家(だんか)とは、特定のお寺の信徒となり、お布施などでお寺に経済的援助を持続して行い、葬式や法事を行ってもらう家のことをいいます。
特定のお寺のことを菩提寺(ぼだいじ)、あるいは檀那寺(だんなじ)といいます。
菩提寺と檀家という檀家制度が生まれたのは、江戸時代のはじめです。
キリシタン禁制によって異教徒を監視する目的で、すべての人はどこかの寺の檀家となる寺請制度が生まれたのです。
人々の所属寺院を明記したのが「宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)」で、これが戸籍のような役目を果たすようになりました。
お寺は檀家にとって生活全体にかかわる大きな存在となり、その関係がいまも続いているのです。
浄土真宗では、門徒といいます。
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日本の一般的なご宗派・お葬式について その⑨
今回は 『日蓮宗』 についてのお話です。
本尊に向かって「南無妙法蓮華経」と題目を唱えれば、悟りがおのずから得られると説く日蓮宗は、宗祖・日蓮聖人の名を宗派名にしている唯一の教団です。
日蓮は12歳で天台宗清澄寺に入り、16歳で出家します。
21歳から比叡山、園城寺、高野山などで11年間、修行したあと、『法華経』こそ、救いのよりどころとなる唯一の経典であると確信し、1253年、立教を宣言します。
しかし、「法華経を広めようとする行者は難にあう」と法華経に書かれている予言通り、「松葉谷の法難」「小松原の法難」など数多くの難にあいました。「伊豆の法難」では「法華経信仰によって国土の安穏をはからなければならない」と説いた「立正安国論」を当時の執権北条時頼に提出すると、鎌倉幕府に危険視され、伊豆に流罪されます。
「龍の口の法難」では、佐渡に流罪される途上、暗殺されそうになりました。しかし、稲妻によって奇跡的に難を逃れたのです。
1274年、ようやく許された日蓮は、山梨県身延山に隠棲して弟子の育成にあたり、60歳の生涯を終えました。
身延山に建立された久遠寺が総本山となっています。
本尊は曼荼羅です。
経典は法華経で、唱える文句は「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」です。
次回からは「お寺で行われる行事」についてです。
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2011年9月11日日曜日
日本の一般的なご宗派・お葬式について その⑧
今回は 禅宗の『曹洞宗』 についてのお話です。
臨済宗と曹洞宗の一番の違いは座禅の仕方です。曹洞宗では壁に向かって座って、座禅をします。
「黙照禅(もくしょうぜん)」といって、ただひたすら座禅に徹する、つまり「只管打坐(しかんたざ)」することをそのまま悟りとする教えです。
この教えを広めたのが高祖・承陽大師道元です。8歳で出家後、12歳で比叡山に入り、天台座主、公円のもとで出家します。
その後、禅宗の建仁寺で、栄西の高弟、明全に師事し、23歳のとき、明全とともに宋に留学するのです。
中国で臨済宗が上流社会と交流するのに疑問を感じた道元は、ただひたすら座禅に徹する曹洞禅を学んで5年後に、明全の遺骨とともに帰国します。
俗塵を嫌った道元は、雪深い福井に永平寺を建てます。
一時、北条時頼の招きで鎌倉に移りますが、すぐに永平寺に戻って隠棲し、出家至上主義をつらぬいて、54歳の生涯を閉じました。
道元から4代目にあたる太祖・常済大師瑩山(けいざん)がその後、大衆教化につとめ、現在、日本最大の寺院数を誇る巨大教団となっています。
曹洞宗では道元を宗派の父、瑩山を母にたとえ、両祖を宗祖と仰いでいます。
本山は永平寺と総持寺(横浜市)です。本尊は釈迦如来です。
経典として用いるのは、法華経、金剛経、般若心経などと、道元が著した正法眼蔵です。
「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」と唱えます。
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日本の一般的なご宗派・お葬式について その⑦
今回は 禅宗の『臨済宗』 についてのお話です。
禅宗といえば、すぐに「座禅」を思い浮かべるほど、日本で定着しています。
禅宗には大きく臨済宗と曹洞宗の二大宗派があり、共通している部分と異なる部分があります。共通の部分は座禅で悟りを開くことと、師から弟子へと教えが伝わることを重要視している点です。
異なる点は「座禅」の仕方などが違います。禅を行うとき、臨済宗は通路に向かって座り、「看話(かんな)禅(ぜん)」といって、師匠によって与えられた問題「公案」に弟子は身体全体で取り組み、悟りを開くというものです。
「公案」とは「禅問答」のことで、いまではむずかしい問答、訳のわからない問答といった意味に使われていますが、悟りにいたる重要な課題として「公案」を使っています。
禅宗はインドの達磨(ダルマ)によって520年、中国に伝えられました。
ダルマは開運の縁起物として知られていますが、それは達磨が中国河南省少林寺で面壁9年の修行を行ったところからきています。
壁に向かって9年間座禅を組んだため、足が腐って無くなってしまったため、ダルマには足がないのです。
達磨から11代目の臨済義玄が臨済宗を開きました。宋に留学した栄西禅師が1204年、京都に建仁寺を建立してから、日本に臨済宗が伝わります。
しかし、京都は天台宗が力を持っていたので、なかなか広まりませんでした。
禅宗を広めたのは、中国から来た僧が1248年、鎌倉幕府の執権、北条時頼の全面的な支援を受けてからです。鎌倉に建長寺を建てて、禅堂での日常規範を定め、禅寺の基盤をつくりました。
1279年、北条時宗に招かれてきた中国の僧は、蒙古との戦いで命を落とした武士の追善供養のために円覚寺を建てました。次々と禅宗のお寺が建てられた当時の北鎌倉はまるで中国街のようだったそうです。
建長寺と円覚寺は現在にいたるまで、禅の道場として有名です。
臨済宗は師から弟子へと伝えていくことを重んじますので、それぞれの寺院が独自の流派をもっています。
妙心寺(京都市)、建長寺(鎌倉市)、円覚寺(鎌倉市)、南禅寺(京都市)などが臨済宗として有名な寺院です。
本尊は釈迦如来です。
特定の経典は定めていませんが、教化には金剛般若経、観音経、般若心経、大悲呪、座禅和讃などを用いています。
「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」と唱えます。
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2011年9月9日金曜日
ちょっと一息。。。家族想ホールのCMです。
↓ ↓ ↓ ↓
メモリアル家族想のCM
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日本の一般的なご宗派・お葬式について その⑥
今回は 『真言宗』 についてのお話です。
弘法大師、空海が開いた宗派です。
真言宗は真言密教とも言い、護摩壇で護摩木を焚くことで知られています。「即身成仏」を教えの根本としています。これは密教の修行をすれば、誰でもただちに仏になることができるという教えです。
804年、31歳のとき、空海は最澄と同じ船に乗って唐に行き、唐の恵果和尚に入門します。
恵果和尚は1000人を超える弟子がいるなか、空海に会うなり、「私はあなたが来るのを待っていました。すぐに密教の奥義を教えましょう」と言ったそうです。
帰国後の空海は、最澄とまったく立場が逆転します。
書の達人だった嵯峨天皇に重用されて、高野山に金剛峰寺を建立し、真言宗を開きます。
空海は当時の天皇や貴族たちに支持されるだけではなく、土木事業を行うなど民衆のために働いたので、民衆からの人気も高い僧でした。
その後、真言宗は分化し、多くの派が生まれています。
本尊は大日如来、主な経典は大日経、金剛頂経です。「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と唱えます。
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2011年9月8日木曜日
日本の一般的なご宗派・お葬式について その⑤
最澄は804年、唐に国家資格をもつ留学生として留学します。同じ船には国家資格のない僧侶として空海も乗っていたことに驚きます。
最澄は天台宗の道場がある天台山で修行をし、帰国します。帰国すると、時代は変わっていました。
最澄を重用した桓武天皇は病に臥していたため、最澄は強力な後援者を失ったのです。
最澄は日本に天台宗を広めるため布教します。そして、比叡山に延暦寺を建てるために奔走しますが、生きている間には実現できませんでした。
亡くなってから建立の許しがでたのです。のちに延暦寺が天台宗の総本山となりました。
その後、優秀な弟子たちの布教で発展し、天台宗の寺院には日光輪王寺、平泉の中尊寺、上野の寛永寺、長野の善光寺など由緒ある寺院があります。
諸仏諸尊はすべて本仏という考えから、本尊は釈迦如来、薬師如来、観音菩薩など多様ですが、一番多いのは阿弥陀如来です。
経典は法華経を根本として、阿弥陀経、大日経、梵網菩薩戒経なども経典とし、「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」と唱えます。
次回は「真言宗」についてです。
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日本の一般的なご宗派・お葬式について その④
宗祖の法然上人は「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われる、と説き、またたくまに民衆に受け入れられたのです。
法然上人は幼くして父を失ったため、叔父のもとに預けられ、仏教を学びました。その後、すでに一大勢力となっていた比叡山東塔西谷功徳院の皇円のもとで出家しました。
仏道を求めて出家したのですが、当時の比叡山は僧侶が権力闘争に明け暮れていました。法然は真摯に仏道を求める僧侶が集う西塔の黒谷別所で慈眼房叡空に入門し、その後25年間、苦悩しながら仏道を求めつづけました。
1176年、43歳のとき、中国の善導大師の「一心に阿弥陀仏の名をたたえて念仏を唱えれば極楽往生できる」という教えに触れ、浄土宗を開宗します。
「念仏を唱えれば救われる」という教えは、またたく間に人々の間に広まりました。これが比叡山の天台宗から弾圧を受ける結果となり、流罪されます。
1年足らずで許されましたが、京都に戻ることを許されたのは79歳のときです。病床に伏し、80歳で生涯を閉じました。その場所が、現在総本山となっている華頂山知恩院でした。
法然没後、弟子たちによって広められた浄土宗の「念仏を唱えれば救われる」というわかりやすい教えは、民衆の心をとらえ、さらに広まっていきました。
本尊は、阿弥陀如来、経典は観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経で、唱える文句は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」です。
次回は「天台宗」についてです。
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日本の一般的なご宗派・お葬式について その③
浄土真宗というのは 見真大師親鸞聖人が開いた宗派、浄土真宗は現在、巨大教団となっています。
親鸞は9歳で出家し、比叡山で20年間修行をしましたが、内面の悩みが解消されなかったため、山を下りました。
京都六角堂に籠って95日目に啓示を得て、浄土宗を開いた法然上人の弟子となり、修行を積むことにしました。
しかし、法然が流罪となったため、親鸞も越後に流罪となります。
還俗(げんぞく)が条件でした。還俗とは僧から俗人に戻ることをいいます。
以後、親鸞は僧の身分に戻ることはなく、「僧に非ず俗に非ず」という「非僧非俗」を貫きます。
越後で妻、恵信尼を娶り、子、信連を設けた親鸞は5年で流罪を許されると、妻子とともに常陸に行き、そこで主著である『教行信証』6巻を著します。この年を立教開宗の年としています。親鸞52歳のときです。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも、死後、浄土で仏になることができると説く「自力念仏」の浄土宗と違い、浄土真宗は「南無阿弥陀仏」と唱えれば、必ず極楽浄土に行くことが約束される「他力念仏」なのです。
故人はすでに極楽に生まれている、と考えるのです。
90歳で親鸞がこの世を去ると、浄土真宗は衰微していきますが、第八世蓮如によって再興します。その後は本願寺を本山として、巨大教団に発展します。
浄土真宗はその後、本願寺派、大谷派、髙田派などに分かれています。
そのなかでも本願寺派と大谷派が大きく、本願寺派の本山が西本願寺であることから 『お西』 と呼ばれ、大谷派の本山が東本願寺であることから 『お東』 と呼ばれています。
本尊は、阿弥陀如来、経典は観無量寿経、無量寿経、阿弥陀経です。
次回は「浄土宗」についてです。
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2011年9月7日水曜日
日本の一般的なご宗派・お葬式について その②
仏式のお葬式は基本的にお寺様にお経をあげて頂いて故人を送るお葬式ですが、そのお経にもいくつかの宗派により様々です。
『南無阿弥陀仏』のお経は
・浄土真宗(西本願寺・東本願寺)
・浄土宗
・融通念仏宗
・天台宗
『南無大師遍照金剛』のお経は
・真言宗
『南無釈迦牟尼仏』のお経は
・曹洞宗
・臨済宗
・黄檗宗
『南無妙法蓮華経』のお経は
・日蓮宗
・日蓮正宗
・創価学会
などが一般的で、皆さんがよく聞くご宗派だと思います。
次回は、先ほど記載した各宗派についてかんたんに説明していきます。
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日本の一般的なご宗派・お葬式について その①
● 仏式(お寺様)
● 神式(神社の神主様)
● キリスト教(牧師様)
● 無宗教
の4種類で行われることが一般的です。
どの形式でお葬式をされるのかは基本的に自由ですが、多くの方はご先祖様がいらっしゃいますのでその方達
の形式に合わせて行われます。
次回は “ 仏式(お寺様) ”についてです。
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